表現者になって初めて見えた世界があったっていうはなし。


価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。
昔は人の顔色ばかり伺って自分の意見を言えないでいた。
「他人を傷つけないか?」
「調和しているものを崩すのではないか?」
「浮いてしまうのではないか?」
「思っていることは正しいのか?」
そんなことばかり思っていた。

それが今ではどんな場所であろうが誰が相手であろうが恐れずに意見を言えるようになった。一体、何をもってして変わったのか。そのきっかけとして自分で認識するものとしては二つあるのだが、その内のひとつがこのブログエントリである。 

Quote: 価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習

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何を読み取ったか。
このエントリを読んだのは入社直前だったか入社後だったか、今ではもう記憶にないが、読んでから6年経った今でも指針のひとつとして深く残っている。 

  • 相手が何を思うかではなく、自分が何を思うか、考えるか。
  • 相手のための自分ではなく、借り物の言葉ではなく、自分の持つ価値の判断基準に従って発信をしなさい。
  • 発信をすればした分だけ、反論もやってくる。
  • 決してそれを怖がるな。
  • そうやって自分の価値の判断基準を育てていきなさい。
  • 精神的背骨をつくっていきなさい。
  • まずは自分が自分をどう思うか。
  • 相手がどう思うかよりも、まずは自分が誇れる自分でいなさい。


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弟との口論。
自分には年子の弟がおり、その弟が超我が道を行く男だった。
「俺の考え方と相容れないやつを無理矢理仲間にするつもりは無い。」
「そうやって周りにあわせて自分をなくして何が楽しい。」
という主張で、通った後には草一つ残らないブルドーザみたいな生き方をしていた弟。

かたや自分は
「本当にやりたいことをやるために周りと協調しないといけないことだってある」
「周りの人を傷つけ、不快な気持ちにさせて生きていくのが正しいとは思わない」
なんてよくケンカしてた。そんな口論ばかりしていた時期、ネットサーフィンをしていたらたまたま上記のエントリを見つけひどく腹落ちしたのである。

一見すると独りよがりにも見える「自分が自分をどう思うか」という部分が非常に崇高だなと感じたのを覚えている。記事を読んで冷静に自分を振り返った時、こう思った。
「今の自分はどうだ?」
「本当に自分の言っていることに自信が持てるか?」
「逃げ口上じゃないのか?」
「弟の言うことが図星でムキになるからケンカになっているのではないか?」

たしかに何か事を成そうとしたとき、周りとの協調は必要。だけどもそれは自分の意見を押し殺すことでもなく、曲げることでもなく、自分の主張と相手の主張の双方の良いとこを取り、自分だけでは見えない世界を知り実現することを求めて、である。決してただ漫然と "みんなとやる" ことが良いことなのではない。

自分の意見を受け止めてもらえるような伝え方を身につけること。自分が納得のいく意見を持ち続けること。真の意味で自分が納得する発言をしていくには日頃からその物事について自信を持って話せるだけのバックボーンが必要。そのバックボーンを鍛える過程で相手の状況等も分析し、整理し、検討していくこと。これらの過程には他人をふるい落とし、蹴散らし、駆逐することは何ひとつ含まれていないじゃないか! 

以来、憑き物が落ちたように、その時々で何を思い、考え、主張する、ということが怖くなくなった。

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エントリを読んでから早6年。
今ではむしろ理想論者よろしく、年齢、役職関係なくかなりつっこんだ主張をする人間になった。弟も丸くなったのだろうし、自分もそれを受け入れる俎上が出来たのだろう。今では大分建設的な議論が出来るようになった。未だに意見がぶつかってヒートアップすることはあるが、そうやって互いの主張をすりあわせて高次でバランスがとれていく過程を体現出来ているのを楽しく感じている。話していて一番楽しい相手だ。

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おわりに。
冒頭に相手に臆せず主張が出来るようになったきっかけは二つあると書いたが、もう一つは会社にいるどんなおっさんより親父の方が怖かったし、論理的であったのを知ったからである。 昔はただただ怖くて物分かりのないくそマジメな親父だったが、今ではきちんと筋道たてて話せば理解を示してくれる物わかりの良い親父である。相手との関係性ってのはつくづく自分の力量と態度で変わるんだなと思い知らされた。

っていうはなし。